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発達障害傾向の毒親、自己愛性人格障害の家族、自分もきっと発達障害気味。

毒親の介護について

 どこから書いていいかわからないけど、まとめようとせずに思いついたことから徐々に書いていくことにしよう。これを書き出すまで、何度も書いては消しを繰り返していてなかなかアップできない(^_^;)自分のための吐き出しと開き直って、わかってもらいたいという気持ちを手放すのが大事なんだろうな。

 たぶん発達障害だった高齢の毒親(毒母)は、今は認知症もありいっそう自分勝手で自分中心になり、自己反省や罪悪感が皆無なためにストレスがなく、お元気で長生きです。自分にストレスがない分子供がストレスを受けまくり、5人もいる子供は全員歪みまくり。40も過ぎて高齢出産(すでに4人も子供いるのに)しやがったために、末っ子の私はすぐ上と10歳以上離れており、面倒くさいがゆえの育児放棄(自分では認めないだろうが)。子供の頃から安心感を持つことが全くできない環境で育った。

 親が発達障害ぎみということは、私にも多少その傾向が受け継がれたんだろう(それが理解できたのはごく最近、中年になってから汗)。どこかへんてこだった私は学校ではいじめにあい、助けてくれる人も信頼できる大人も1人もいないまま育った。それでも子供の頃は希望を持っていたと思う。外の世界に出たら良くなるはずだと信じていた。馬鹿だったと思う。馬鹿だったから生き延びられたのかもしれないが、生き延びたのがいいことだったのかどうかもわからない。

 15年ほど前に父親が死んでから、一人では何もできず人に依存するのが当然と無邪気に思っている毒親のために(医学的には正常範囲なのだろうが、知能が低めなのだ)、実家の近くで職場を見つけ、実家から徒歩2~3分の場所に部屋を借りて引っ越した。自分勝手にやりたい毒親は子供と同居は望まないが、都合よく自分をいつも助けてもらうことは望む。私も年取った親はほってもおけないので、そうした。親と同居したら自分が壊れるのはわかっているので、これからも同居することはないだろう。

 それからずっと紆余曲折ありながら(いろいろあった)親を見続けて、気ままに気楽に楽しく生き続けてきた毒親は、認知症も進み、今は要介護3。去年2015年に大腿骨骨折をしてからは外にも出られなくなったので、介護サービスを枠いっぱい使いながら、私は週2回訪問ペースで通い続けた(今は引っ越しして片道約1.5時間のところから通っている)。

 約ひと月前、肺炎で入院(この時も大変だった。頼れる人はおらんわ、タクシーに乗せるのも一苦労で)。かなり弱って一人で上半身も起こせず、意識も朦朧とした感じだったので、いよいよ次のステージだな、と思ったら、すごい回復力で飯も全部食い、元気。私より元気。

 この時点で私ががっくりくる。この数年はっきりいってしんどかった。でも徐々に食が細り、少しづつ弱っていってるのが感じられたし、年相応というか遅すぎるくらいなので、このまま老衰していくのを支えていこう、と考えていた。肺炎というのも老衰の表れだし、自然なことと思った。

 それが入院したらモリモリ飯を食い、今や数年前の気力体力に戻った感じ。ただし、足は悪いしボケは進んだまま体力だけが元気なので、よりやっかいで手がかかる状態に。

 まったく弱らない毒親。しかしボケは進むしやっかいさはますし手はかかる。もちろん世話をする私への感謝の気持ちはまるでなし。介護する誰もが思うであろう「いったいいつまで続くの?」がどーんとくる。40過ぎの高齢出産なのに、毒親が死んだ時には私もおばあちゃん?私の人生毒親に一生吸われたまま?思い返せば生まれた時から吸われていた。私の人生や運やエネルギーを吸うために私を産んだのか?という思いが爆発する。

 そこに苦しさを倍加させるのが、この数年のしんどさのもうひとつの元凶である、自己愛性人格障害の糞姉。年が14年離れているので、毒親×2の状態で子供時代を過ごした。姉という言葉を使いたくないので、以下自己愛糞とだけ呼びたい。毒親と相似形のそっくり親子。私とは全く異質。どちらかが生まれなければよかったと本気で思う。まあ私が後なので私が生まれないでよかったのだが。2人はそっくりなのだし。ただ他の兄弟(男3人)はどちらかというと私に近い人格の歪み方なので、きっと私のほうがまだまともに近いのだと思う。程度問題だけど。