「怒る」「受け入れる」「忘れる」
毒親持ちやアダルトチルドレンにとって「嘆く」「怒る」というプロセスは、「受け入れる」前に必要なプロセスなのかもしれない。
ACな人は、幼少期から自分の要求や不満を言うことが許されない環境に育ったので、自分の主張をするよりも「あきらめる」「受け入れる」「他人の欲求を優先する」を先に覚えている。そして骨の髄まで叩き込まれている。だから「怒る」ということがうまくできない。怒り方がわからない、ひどくなると、自分が怒っているかどうかさえわからない、自分の気持ちが自分でわからないということにもなる。あとになって、よく考えたらあの時自分は怒ってたんだ、と気づくけど遅すぎる〜となる。
最近になって、まずはしっかり怒るべきなんじゃないかと思って、試みてはみるけど、どうもうまくいかない。怒ることに慣れてないせいか、うまく怒れない。ただバカにされるか人間関係が終わってしまうだけ。上手に怒って人との距離を調整することができない。
子供の頃いじめにあっている時に、じーっと我慢していて(そもそも我慢してるからいじめられるのだが)限界にきて怒ったりにらみつけたりすると、いじめてた奴らは「わー、怒りよった」「にらみよった」と大笑いしてバカにする、というのがいじめのひとつのパターンだった。あれも「怒ってもしかたない」と心に刻みつけられた原因のひとつだったかも。
子供の頃のいじめというのは本当に、一生に渡って悪影響を及ぼすもので、大人になっていじめ自体の記憶は薄れても、身体感覚や心の習慣として残り続けるから深刻だ。
家にいても自分のことしか考えない毒親と自己愛性人格障害の糞姉と生活してるんだから、自己主張を覚える場所がない。
数年前、毒親の介護をめぐって糞姉の糞さを目の当たりにして、怒って抗議をしたが、自己愛性人格障害なのでいくら怒っても本当に無意味。人の立場が理解できない上に自分に都合の悪いことは記憶から消去し、都合のいいように記憶を捏造する。
自分を守るために怒らなければいけないのに、怒ってもあまり事態はよくならない。怒ってもバカを見、怒らなくてもバカを見る。全くどうしていいかわからない。
不当な状況を子供の頃からあきらめて受け入れてきたけど、遠い過去になったからこそ、嘆いて、怒りたい。当時は「怒っても仕方がない」としか思わなかった。関係のない他人も「怒っても仕方がないでしょ」と言うだろうけど、怒るのは「仕方がある」からじゃない。抑圧するより怒ったほうがいいと思うからだ。
怒ったら、背負ったものをぜーんぶ放り出して、捨てて、忘れ去りたい。そしてダメな自分を許したい。
なかったことにして蓋をしても、年を取ってからお化けみたいに出てくるものなのだ。自分の中で処理しないと。