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発達障害傾向の毒親、自己愛性人格障害の家族、自分もきっと発達障害気味。

自分の中の話し相手

 心の中は常におしゃべりをしている。瞑想の目的はこのおしゃべりを止めて静かな心の状態になることなのだろうが、そううまくいくものなのか、絵に描いた餅という気もする。自己評価が低く自分を責めがちな人は、この心の中の声がたいてい否定的で、常に自分にダメ出しをしていることが多いのだろう。これというのは、自分の中に意地悪な話し相手がいて、自分はよせばいいのにいつもこの相手とばかり話している状態なのだといえる。他のもうちょっとましな相手と話そうとすると、この意地悪がすぐに割って入って邪魔をしにくる。毒親育ちはそうなりがちだろう。成長過程で(自意識もない状態の子供の時から)繰り返し自己否定の考えを刷り込まれ、一生毒親を自分の中に住まわせているような状態になってしまう。赤ちゃんの頃から刷り込まれているので、追い出すのは大変だ。追い出せたと思っても何かの拍子に簡単に戻ってくる。

 逆に考えてみれば、自分の中の話し相手が「いい人」な人もあるんだろう。自分の中の話し相手と話をすると、いつも自分を認めてくれて、力づけてくれて、辛い時には慰めてくれたり大丈夫だといってくれたり。もしかしたら意地悪な話し相手もいい人の話し相手も両方いる人もいるかもしれない。親が毒親でない人の頭の中はそんなのかもしれないなと思ったりする。

 自分の中の話し相手を変えようと私も今までいろいろ頑張ってきた。でもなかなか難しい。そういう時に何の努力もなく「いい話し相手」といつも話している人を見ると、「ああどう頑張っても生まれが悪いとだめなんだなあ」とがっくりきたりする。「こうなってはいけない、でもなってしまう。だめだだめだ、変えなければ!それができない私はだめだ。いやそんな風に考えたらだめだ」と無限ループ。要するに、生きることが終わりのない闘争のようになってしまう。

 自分で自分をいじめるような考え方をするのは馬鹿げている、と簡単に考えられる人は、自分が健全だからわからないのだ。それがどれだけしつこく粘着質にまとわりついてくるか。

 でも、単なる話し相手の問題なのだと考えて、違う相手と話すように試みるのもいいかもしれない。